1.求日本文献资料的网址
需要注意的是:这里所讲的日文文献是广义上利用日本网上资源所搜索到的文献资料,其内容可能是日文或者英文,也可能并非在日本出版。
另外,以下的文献资源应当都是适于引用的。 科技类:(1)JST系 一般讲到日本的文献收录索引大家都知道科学技术文献速报(简称"文速")。
文速是由独立行政法人科学技术振兴机构(JST)所发行的文献索引,跟SCI/EI差不多但却是以实体形式出版的半月刊(生命科学类是每旬出版);每年有6次(生科12次)以光盘出版,有料而且不提供在线检索,我国有一些图书馆可能有购买。因为上面登录的主要还是英文资料,学校没有必要专门去买,一般对我们没有什么意义。
JST也提供、整合在线服务,虽然有用的都是有料的,但也有一些不错的无料资源。 Journal of Industry-Academia-Government Collaboration 无料全文) 在首页左下的链接中整理了一些机构的网上出刊:()其中比较值得看的是理研发行的两份,都无料(后者需注册)。 左下即可链到Science Links Japan( 有机化合物のスペクトルデータベース SDBS 还教你怎样针对研究课题查找资料。
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2.有关日语专业毕业论文
下面是在日本正在进行的有关百人一首的研究课题
「百人一首」研究の最前线
●如儡子の『百人一首抄』の分析に着手して気付いたことは、世に多数伝存する百人一首のテキストに、歌人の配列の上で、2つの系列があるという事であった。そして、成立时期の点で、いずれが先か、というのが、専门家の间で问题の争点になっていた。平成8年顷のことである。
●吉海氏などの専门家のアドバイスを顶きながら始めたが、実は、如儡子の『百人一首抄』は、いわゆる一般的な百人一首の配列とは异なる、百人秀歌型の配列であり、しかも、百人秀歌型とも完全には一致しない配列であった。仮名草子の作者・如儡子は如何なるテキストを底本に使ったのか。
●如儡子の百人一首注釈书には、水户彰考馆所蔵の『百人一首抄』の他に、国会図书馆所蔵の『酔玉集』という伝本もあった。これは、一般的な配列である。私は、この2つの注釈书の関系を明らかにするために数年间を费やした。百人一首の研究は実にシンドイ。何をするにも100回缲り返す必要があるからである。
●如儡子は注釈书の「奥书」で「诚に、せいゑい、海をうめんとするにことならすや。」と言っている。「精卫■(土偏+眞)海」という中国故事。不可能な事を企てて、ついに徒労に终わる、というたとえ。基础的で、解りやすく启蒙的な、この大部な注釈书を书き终えた著者・如儡子の思いがよく伝わってくる。
3.日语毕业论文 日本企业文化
日本企业文化
日本の企业文化とは何か、と问われたときに、何と答えるべきなのだろうか。かつて、戦后の高度経済成长期には、日本企业といえば、企业と社员の関系はまるで家族であるかのようなつながりであり、制度上も就职すれば定年まで年功序列という仕组みの上で、安定した生活を送るということが、当たり前のように考えられてきた。また、欧米的な意味での个人主义が発达していなかった日本においては、集団的に仕事を遂行しようとする倾向が强く、日本企业では个人よりも职场単位で仕事が行われることが多かった。日本企业で职场内での「仕事の融通」が频繁に行われるのも、このためだとされる。年功序列という、个人の评価よりも年功が尊重されてきた仕组みにおいては、実は社员间に
不満も起こりやすいはずであるが、日本では「人の和」を重んじ、调和を保っていくことで、集団での仕事を円滑に行うことが当たり前とされてきた。戦后の経済复兴から、高度経済成长に至る过程においては、「所得倍増计画」(池田隼人元首相)などに见られるように、国民全体の生活を底上げすることが重要とされていた。そのため、现在の中国の成长のような、格差を生むいびつな成长ではなく、国民のほとんどが中流という国家を生み出すこととなったことは言うまでもない。しかし、バブル景気の到来と崩壊に伴い、胜ち组と负け组の差は明确となり、いまや、かつての终身雇用に基づく企业文化から欧米型の実力主义の世界へと日本社会もまた変貌を遂げつつある。采用体系も多様化し、大卒の新人を采用し、育てあげるのではなく、既に経験のある人材を中途采用することも当たり前になっている。当然に、かつてのような企业内での「和」を重んじる文化は鸣りを潜め、社内ですら竞争原理が働くことが少なくない。かつては、日本企业の职场は家庭と同じように、「职场共同体」とも言えるような环境こそが特徴であったわけだが、その特徴は次第に薄れつつある。
さて、いま急速な経済成长の过程にあり、注目されている国の一つとして、ベトナムがある。ベトナムはアジア通货危机が起こる以前の90年代前半、一度、日本企业などによる投资ブームに沸いたことがある。その当时に进出した企业のうち、いまも事业を継続している味の素やロート制薬などの企业もあるが、この时はベトナムの投资环境の未整备状态が灾いし、タイなど周辺国での通货危机も相まって、多くの企业が撤退するという事态に陥った。しかし、21世纪に入るや、ベトナムは投资に関する法制度や関连インフラなど、急速に整备しており、また昨年にはWTOへ加盟したことで、日本企业をはじめ世界中の企の有望投资先として脚光を浴びている。ベトナムは日本と同じように南北に长い国土を有し、东京と大阪のように、ハノイとホーチミンという二大都市を有する。また、中国や韩国ほどには儒教の影响が强くなく、仏教、キリスト教など様々な宗教を柔软に受け入れる。家族のつながりは大変强く、テト(旧正月の际には、店舗という店舗が休みとなり、人々は田舎へと帰省し、家族と
共に过ごす。また、日本人と同じように、手先が器用で、応用力に优れていると言われ、ものづくりに向いた国民であるとされている。そうした特性に着目し、进出した外资企业も少なくない。さて、急速な発展を遂げるベトナムであるが、投资环境をめぐる课题の一つに労働问题がある。多くの外资企业が进出
し、次々に工场を建设しているために、これまでは工场を建てた近隣の住民から雇用することが容易であったのが、ここに
来て、ワーカーの确保が难しくなりつつある。农村から都市部にある工业団地などに働きに出てくる人々が増え、例えばハノイ近郊の工业団地の周囲には工业団地内で働く农村から出てきたワーカーが8畳ほどの部屋に5~6人で住まうという状况で、あまり良い住环境であるとは言えないようである。労働者
ができるだけ働きやすい环境を求めるのは、全世界共通であり、日系企业も寮の整备など、今后直面する课题に头を悩ま
せていると闻く。また、管理职、技术职となると、さらに人材の确保は困难
を极め、欧米系、台湾・韩国系、そして日系の间で、引き抜き合戦が过热化している。特に欧米系の企业が、日系企业で1年间ほど研修を受けた优秀な人材を、高い赁金を提示し、引き抜いていく事态が后を绝たない。日系企业は长期雇用を目指し、しっかりとした研修を受けさせるため、欧米系企业としては、研修にかけるコストを省くことができる分を、给与に上
4.日语专业毕业论文范文日本语の女性语について
日本语の女性语
江户时代には、女性の话し言叶には地域や阶层により大きな违いがあった。武家や町人の间では、「丁宁な言叶遣いを用いる」「汉语よりも和语を用いる」などが女性の言叶遣いとして望ましいとされ、また游女言叶・娘言叶・武家の奥方の言叶など特殊な社会で発生した女性语があった。
现代の日本で一般的に认识されている女性语の起源は、明治时代の有产阶级の女学生から広まった言叶遣い「てよだわ言叶」である。「よくってよ」「いやだわ」などの言叶の流行は、当时は「异様なる言叶づかひ」(尾崎红叶)など文化人の非难の的になったが、结果的には中流以上の女性で女性语として定着してしまう。
1980年代ごろからは男女ともに「だよ」「だね」「じゃん」といったユニセックスな言い回しが好まれるようになり、1970年代以降に生まれた女性の间では女性语の多用はされなくなった。女性语は现在では中年以上の女性が用いるほかはオネエ言叶に夸张された形で残っている。
话し言叶としては衰势にある女性语だが、役割语としては现在もよく用いられる。特に男性作家による作品中ではしばしば多用される。女性作家による作品中では、女性の台词は现実の言叶遣いを反映してユニセックスな言い回しであることも多いが、発话者が女性であることを际立たせるため、作家自身は女性语をほとんど使わない场合であっても、作品中では女性语が多用されることも少なくない。
[编集] 主な言叶
一人称は「私(わたし)」が基本形で、砕けた「あたし」もよく使われる。改まった场では「わたくし」。西日本では「うち」も用いられる(「うちの会社」等の用法と同じだが、他地域では一人称には用いない。ただし2004年顷から関东などでも「うち」を自称にする者が増えている)。
「…してくれる?」「変わらない?」など、动词の未然形を语尾上げアクセントで疑问形とする表现は、男性も用いるものの女性语的であり、実际女性によってよく用いられる。
标准语では男性语とされていた「仆(ボク)」「俺(オレ)」「俺等(オイラ)」などを一人称に使う女性もいる(ボク少女)。こうした女性はサブカルチャーの影响で使っていると见なされがちで、同性・异性を问わず疎ましいとか、はしたないと思われる场合が多く、私的な场で用いることにも拒否感が强い。
二人称は「あなた」が代表的であるが、同辈か目下には「お前さん」「君」「あんた」などの使用もある。
[编集] 方言における女性语
东京では女性语とされやすい「よ」「ね」「わ」は、地方によっては女性语ではなく男性も用いる(主に西日本)。
近江弁に「…したらどう?」と勧诱を示す「…したらわ」との言い回しがあるが、男性はまず用いず、女性语と言える。
関西弁には「いや」(あらまあ)や「~やる」(~られる)のような女性语があり、有名な「~や」「~ねん」「~へん」なども元は女性から男性に広まった言叶である。
5.日语毕业论文 樱花与日本文化
一、樱についての绍介
春に白色や淡红色から浓红色の花を咲かせ、とくに果実を食用とするほか、花や叶の塩渍けも食品などに利用される。日本人に古くから亲しまれている。
园芸品种が多く、とくに江户末期に开発されたソメイヨシノ(染井吉野)は、明治以降、全国各地に広まり、サクラの代名词となった。自然种としてはヤマザクラ、オオシマザクラ、エドヒガンなど10种ほどが认められている。また、日本では固有种・交配种を含め600种以上の品种が自生している。
古代では、山に咲くヤマザクラ(山桜 P. jamasakura)や、八重咲きの桜が一般的であった。有名な吉野の桜も、ヤマザクラである。静冈県富士宫市に日本最古级のヤマザクラである狩宿の下马ザクラがあり、特别天然记念物に指定されている。
また、日本において最も驯染み深い花であることから、一般的に国花の一つとされ(法的に定められたものではない)、明治时代以降军队や学校の制帽や阶级章に桜を象った纹章が用いられている。现在においても警察や自卫队などの纹章に使用されている。
ヤエザクラは、サトザクラの八重咲きの品种の総称として用いられる。
二、桜についての由来
「サクラ」の名称の由来は、一说に「咲く」に复数を意味する「ら」を加えたものとされ、元来は花の密生する植物全体を指したと言われている。また他说として、春に里にやってくる稲(サ)の神が凭依する座(クラ)だからサクラであるとも考えられている。
富士の顶から、花の种をまいて花を咲かせたとされる、「コノハナノサクヤビメ(木花之开耶姫)」の「さくや」をとって「桜」になった、とも言われている。
三、桜の象徴
春の象徴
サクラの蕾桜は、春を象徴する花として、日本人にはなじみが深く、日本で最も有名な花でもある。风流事を称して「花鸟风月」というが、平安时代以后の日本において、単に「花」といえばサクラのことを指す。なお、平安时代以前の「花」は、梅のことを指す。
日本最古の史书である『古事记』『日本书纪』にも桜に関する记述があり、日本最古の歌集である『万叶集』にも桜を咏んだ歌がある。その后の和歌にも桜を咏んだものは多い。平安时代の歌人・西行法师が、月と花(サクラ)を爱したことは有名である。西行法师が咏んだ歌の中でも、次の歌は有名である。
四、桜と文化
桜について、歴史・文学上の実例を引きながら、兴味深く书かれている。数例挙げると、
☆水上勉の『桜守』(1969)のモデル笹部新太郎は、在野の桜研究家で、その生涯を桜と共に终えている。いま见る大阪造币局の通り抜けの里桜は、大阪空袭で焼亡した桜を自家の武田尾の桜山から移植したものである。
☆ヤマザクラの名桜、巨桜は全国でも数少ない。近年ようやく知られてきた熊本県阿苏郡白水村の戦国时代末期と伝えられる一心行の大桜ぐらいである。
☆富安风生の桜の名句に「まさをなる 空より しだれざくらかな」がある。このシダレザクラ(枝垂れ桜)はエドヒガンの変异种である。この桜は平安末期、箱根山で発见され都に运ばれ、珍しい花として摂関家に献上されていたらしい。
☆折口信夫が养嗣子春洋の戦死に际して咏んだ一首(歌集『倭をぐな』1955年)
「たたかひに 果てにし子ゆえ 身に沁みて ことしの桜 あはれ 散りゆく」
☆桜を爱し、桜を讃えるところに生きる歓びがある。王朝びとは桜をいのちの辉きとみた。その清明美には死の翳は全くない。花の香りは心に安らぎを与え、烂漫の花は歓びを形にしてみせる。女性、この母なるものが桜なのだ。日本文化が桜文化であったことは、その衣食住の中に无限に「桜(なるもの)が织り込まれていることで分かる。
☆次の芭蕉の句ほど桜に対する人びとの思いを鲜やかに印象づける句はほかにない。
さまざまの 事おもひだす 桜かな 芭蕉
仅供参考。
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